自分とか、ないから。要約と読者の反応|東洋哲学で悩みを消そう

自分とか、ないから。」は、インド・中国・日本の主要な東洋哲学者7人の思想が、著者の解釈と体験談をまじえて、わかりやすく解説された哲学書です。それぞれの哲人の教えを紹介しつつ、哲学的な概念を日常に落とし込むことで、より理解しやすい内容となっています。読後には、難解な知識としてではなく、心が軽くなる実践的な哲学として、新しい視点を得られるはずです。著者は西洋哲学が真理の探求に重点を置く一方で、東洋哲学は「どう生きればいいか」という具体的な問いに答えを与え、とにかく楽になるための哲学であると語っています。

本書の要点:自分の真実

6章にわけて7人の哲学者の哲学が語られる構成になっています。「この世はフィクション」「自分は単なる妄想」「すべてはつながっている」――これらの考え方は、一見すると突飛に思えるかもしれませんが……、本書ではこういった思想が丁寧かつ楽しく解説されています。各章を要約すると以下のようになります。

1章:無我 自分なんてない(ブッダの哲学)

東洋哲学の祖とされるブッダは、王子としての何不自由ない生活を送る中で虚無感に苛まれ、29歳で出家し「自分探し」の苦行に身を投じました。6年間の苦行の末、本当の自分など存在しないという「無我」の境地に達します。ブッダは、身体が自分以外のもの(食物、空気、水、太陽光など)で構成され常に変化していること、思考や感情が自発的なものではなく自然と湧き上がる現象であることなどを示し、自分を固定しようとすることが苦しみの原因だと説きました。変わらない自分を求め続けることは、激流の中に石の堤防を築くようなもので、いずれ決壊し苦痛をもたらします。「おれがいる、という慢心をおさえよ。これこそ最上の安楽である」というブッダの言葉は、自己への執着を手放すことで得られる状態、涅槃(ニルヴァーナ)を示唆しています。

2章:空 この世はフィクション(龍樹の哲学)

ブッダの死後、その教えは複雑化し、200巻にも及ぶ膨大な書物にまとめられてしまいます。この状況を憂いた天才・龍樹は複雑化した仏教をわずか一文字「空(くう)」に集約しました。「空」とはこの世界はすべてフィクションであるという思想です。例えば、コップは土から作られ、用途によって商品、花瓶、ゴミと役割を変えます。これは、そのものの本質が固定的なものではなく、言葉や関係性によって生み出される幻であることを示します。人間関係や社会的な肩書きも同様にフィクションであり、私たちは互いに役割を演じているに過ぎません。このフィクションという概念を理解すると、そこに境界線は存在せず、「縁起(すべてつながっている)」という真実が見えてきます。「空」を悟ると、米粒ひとつに宇宙を見る「一即多、多即一」の境地に達すると言われます。龍樹はまた、「強い/弱い」「善い/悪い」「有る/無い」といった比較や判断もフィクションであり、そのような「戯論(しょうもない考え)」にとらわれること自体が無意味だとし、すべての悩みが成立しないことを論破します。

3章:道 ありのままが最強(老子と荘子の哲学)

インドで「空」の哲学が生まれた頃、中国では老子と荘子が「道(タオ)」の哲学を説きました。「道」は、宇宙の根源であり、万物のありのままの姿を指します。インド哲学が「この世界からの解脱」をめざすのに対し、中国哲学は「この世界を楽しむ」ことをゴールとします。老子と荘子は不自然な努力や競争を手放し、自然の摂理に身を任せる「無為自然」を説きました。彼らの思想によれば、最も柔らかいものが最も硬いものを支配するように、ありのままの姿こそが最強であり、空っぽになることで「道」とつながり、孤立するどころか深く自然な人間関係を築けるとされます。荘子の「胡蝶の夢」は、現実と夢の境界が曖昧であることを示し、すべてが「道」の中にあるという思想を象徴しています。

4章:禅 言葉はいらねえ(達磨大師の哲学)

インドから中国に禅宗を伝えた達磨大師は、「言葉はいらねえ」という「不立文字」の教えを徹底しました。言葉が思考の枠を作り、本質から遠ざける「言葉の魔法」であると考えました。そのため、禅問答のように常識を超えた問いかけや、壁に向かって座禅を組むといった修行を通じて、言葉の束縛から離れ、直感的な悟りを目指しました。著者は、私たちがダメだと思った瞬間に言葉の世界に入っていると認識し、散歩などで言葉の世界から離れることが、新たなアイデアや解決策を生むと示唆します。

5章:他力 ダメなやつほど救われる(親鸞の哲学)

日本の浄土真宗の宗祖である親鸞は、自らを「愚禿(ぐとく)」=「アホなハゲ」と称し、仏教の常識を破って結婚するなど、ダメなやつほど救われるという「他力」の哲学を徹底的に体現しました。従来の仏教が自力での修行を重んじたのに対し、親鸞は人間の無力さを認め、阿弥陀仏の本願にすべてを委ねることで、悟りや救済は「空」の方からやってくると説きました。この教えは、当時の民衆に大きな勇気と安心感を与え、日本仏教の普及に貢献しています。

6章:密教 欲があってもよし(空海の哲学)

日本の真言宗の宗祖である空海は、中国で「密教」を学び、それを日本に広めました。フィジカルモンスターであり、陽キャの天才と評される空海の思想は、従来の仏教とは異なり、「生」と「欲」を肯定する超ポジティブなものです。密教における「空」は、すべてのものがつながっている状態である生命の秘密を指し、それは言葉では表現できないため「曼荼羅」として象徴されます。空海は、この「空」の境地に到達するために、大日如来(悟りの状態そのもの)になりきることを説きました。これは「大我」という概念で、個人の欲をお金を得て他人を助けるといった「大欲」へと拡大することで、自己と他者の境界が薄れ、最終的には自分が消滅し一番きもちいい境地に達すると考えます。

読者の反応と評価

  • 圧倒的な読みやすさとユーモア
    「ブログ読んでるような感覚で一瞬で読めた」という声が多いです。文字の大きさ、多い余白、イラストなどの活用もまた読みやすさに貢献しています。著者の自虐ネタや達磨大使の変人っぷり、龍樹=ひろゆき、といったユーモラスな表現が読者の心を掴んでいます
  • 難解なテーマの分かりやすさ
    哲学に全く興味は方でも楽しく読めそうですし、難しい内容がポップにおもしろく書かれているという感想もあります。すごくわかりやすくてスッと入ってくる一冊です
  • 心の軽さと実践的なヒント
    「読んで心が軽くなった」「生きづらさをほどくヒントが詰まっていた」と感じる読者が多いです。仕事や人間関係で疲弊した現代人にとって、「考えるな、感じろ」や「なりきるパワーを甘くみるな!」といった実践的なメッセージが強く響いています
  • 著者の人生経験への共感
    東大卒でありながら、大手IT企業退職、離島移住、芸人挑戦、離婚、無職といった経験を持つ著者の赤裸々な自己開示は共感を呼び、「ダメなところも全てさらけ出してくれてるから読みやすく共感しやすかった」という声に繋がっています

一方で、「カジュアルすぎる」「読み応えがない」「ノリが合わない」といった意見も一部には見られますが、全体的には「教養としての東洋哲学」の新しい形として、多くの読者の心を掴んでいます。

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